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長年お世話になった人が亡くなった
用があり、数か月ぶりに知り合いTさんにLINEを送った。
5日経っても返事がこない。お忙しいのか?それとも体調崩しているのだろうか。心配しつつも気長に待っていた。共通の知人は8月以降ぱったり連絡がとれなくなったという。どうも体調を崩しているみたい。「心配ですね」なんて話をしていたら、着信があった。やっと返事が来たとホッとしたのもつかの間だった。
声が違う。連絡の取れなくなったTさんの旦那さんだった。以前バイト先で私が体調を崩した時、家まで送っていってくれたことがある。
9月3日に息を引き取ったこと、6月に病気が発覚し入院。治療を頑張ったものの……。ということを嗚咽をもらしながら伝えてくれた。※ちなみに最近流行りの新型コロナではない。
「え…」
なんていうか、何も言えない。
こういう時、なんて言っていいか分からない。5月に会った時はお元気そうだったのに。そのあとそんなことになっていただなんて。そして急すぎる…。
「まだお辛いのに、ご連絡どうもありがとうございます」
こんなことくらいしか言えなかった。
だってすぐに受け入れられない。実感わかない。もう会えないなんて。
コロナが収束したら、フルーツサンドとか買いに行こうって話してたのに。忙しいの落ち着いたら、一緒にあつ森で遊びましょうって言ってたのに。まだ一度も一緒にあつ森やってないよ。今度一緒に遊ぶ時のために、ダブったレシピもたくさん残してあるんだよ。うちの島の砂浜はレシピだらけだよ。
気持ちの整理をするために、今こうして日記を書いている。公の日記で書くことではないかもしれないけど。
「今度会う時にでも~」の「今度」はある日突然、永遠に失ってしまう。それを誰かに伝えたいので残します。自戒もこめつつ。
今度会った時にでも渡そう
と思って用意していたプレゼントがあります。夏にウィンドウショッピングしていた時に見つけた猫グッズ。
「Tさんこれ好きそうだな~」と思って買っておいたもの。
この猫の顔。そしてわさび。これ見たらきっと爆笑してくれるだろうな~。
「わさびってところがいいわね」なんて感想言い合ったあと「フフフ、ありがと」って言ってくれるんだろうな。
「今度会った時に渡そう」って思ってた。
こんなことになるなら、写真だけでも先に送っておくんだった。そしたら闘病中に少しは励ませたかもしれないのに。
どうしようね、このアクキー。
もう見せることもできない。せめてお墓参りの時にでも持参しようか。
あ、そういえば私、黒い靴持ってなかったわ。
祖父が亡くなった時も無くて買わなきゃ!って思ってたのに、結局まだ買ってない。
以下、Tさんとの思い出話。
私とTさんの関係
最初に「知り合い」と書いたが、そんなよそよそしい関係でもない。
かつてのバイト先の先輩であり、「師匠」なんてふざけて呼んでいた時もあった。師匠は巨大な仙台七夕飾りの吹き流し部分をたった一人で作り上げていたこともある。2006年の初夏、私は主に師匠の「製作補助」としてバイトに入った(のちに私は別の制作を頼まれたり、七夕飾りの頭の部分の花付け専門に転向するなど、「補助」ではなくなっていったが)。最初は怖かったけど、他のスタッフから慕われている様子を見て、すぐに優しい人なんだと分かった。
師匠からは仕事に関することだけでなく、様々なことを教わった。制作中は、手さえ動いていればお喋り自由だったので、単調作業中はたくさんおしゃべりした。趣味が似ていることもあり、オタクトークに花が咲いた。一回り以上年が離れているので、ジェネレーションギャップはあったけれど。
プライベートで会うこともあった。私はTさんに連れられて、初スタバを経験した。
投稿用マンガの原稿を手伝ってくれたこともある。私の家に来て、トーン貼りと、肩をマッサージしてくれた。老眼のためかトーン貼りスキルは今一つだったが、マッサージは気持ちよかった。
自分に自信がなく、いつも下ばかり見ていた私に、根気強く自信を与え続けてくれた。たくさんの小さな成功体験を積み、少しずつ前を向けるようになっていった。
「アンタは自分が弱いと思ってるかもしれないけど、ホントは強いのよ。」
「何回マンガ投稿してダメでもまた投稿するでしょ。なかなかできることじゃないわよ」
言い回しは多少違ったかもしれないけど、こんなことを言われたことがある。かなり勇気づけられたのを覚えている。
またある時、うちの実家は貧しいのだが、父が会社を辞めた。母はずっと専業主婦。私は漫画家志望のバイト。弟はニート。お金が無い。仕事を増やさなければいけない。とても漫画家志望を続けられる状態ではなかった。
「マンガを描くのはやめるなよ」
そんなときTさんは、投稿できなくても、ペースが遅くても、例え一時的に描けなかったとしても、どんな形でもいいから描くのを「やめるな」と言ってくれた。
バイトを掛け持ちしなければ…とバイト先を探し、面接を受けたが不採用だった。
そのあと、あの東日本大震災が起こった。
Tさんの旦那さんの勤め先が津波で被災。埼玉に転勤することになった。Tさんは仙台に残るか悩んだ末、旦那さんについていった。でも、七夕の時期だけは戻ってくる、と。
同時期、私には彼氏ができた。実家の居心地が悪かったのもあり、強引な彼に呼ばれるまま埼玉へ行った。埼玉での同居生活が始まった。
同時期に仙台から埼玉へ行くことになった私とTさん。ときどき越谷レイクタウンで一緒にご飯を食べた。
「最近全然肉食べてなくって~」と肉を注文する私を心配そうにしていたTさん。
それから1~2年経った頃だろうか、私はすっかり心を病んでしまっていた。元々少なかった貯金も底をつきそうだった。このころにはイラストの仕事をしていたが、駆け出しなこともあり、低単価な仕事しかなかった。
そして何より彼氏のモラハラがひどかった。が、自分では気づけずにいた。
わけもなく涙が出て、絶望した気分でぼんやりしていると、電話が鳴った。Tさんからだった。「最近どう?」
最近のツライ状況を話した。
「あんたそれ、精神的DVじゃない?」
最近そういった特集をテレビで見たのだという。なにも殴る蹴るだけがDVではない。精神的に追い詰めるのもまたDVなのだという。そう言われてみれば、思い当たるフシばかりだった。バイトでつけたはずの自信は粉々に崩れ落ちていた。みんなが私をダメなヤツと思っている、そんな風に思いこまされていた。心が孤立していたのだ。
「帰ってきなさい」
Tさんは電話越しに優しくそう言った。
元々は七夕のバイト手伝いに来てほしい、という連絡のための電話だったのだけど…。
私は荷物をまとめ、仙台の実家に帰った。バイト先の仲間はみんな私の味方だった。
この出来事により、彼は心を入れ替えたかに見えたが、DVはさらに悪化。物理的な暴力すらあった。会うことがストレスだった。
やがてもう好きではないことに気づき、別れを告げた。
「こいつとずっと一緒にいるくらいなら、一生独身でいたほうがマシだ!」ってな覚悟で。
それからの私は仕事に打ち込み、イラストの仕事が軌道に乗り始め、バイトを続けるのが難しくなっていった。
それでも仕事の空いてる時期に手伝いに出向いた。このバイトが、仲間たちが好きだった。
だがそれも長くは続かず。2年前にその会社の七夕事業が無くなってしまった。支店だったので、その支店そのものが無くなった。ここに来ればみんなに会えたのに。私の居場所が一つ無くなった。
それでもTさんとの交流はゆるく続いていた。
県内でコロナ感染者が出る直前に一緒にご飯を食べたし、コロナ禍だけど密に気をつけながら一緒に「きのこる展」を見に行った。今年の5月は小一時間だけ…と屋外でマスクをしながらお茶をした。それがTさんと会った最後の日となった。
約15年間の付き合いだった。
他にもいろんなところに一緒に行った。最初のうちは、仕事で作ったものを一緒に見に行くとか、早めに仕事が上がった日の帰りにお茶するとか、その程度だったと思う。
バレンタインチョコを一緒に買いに行ったり、石ノ森萬画館まで行ったり、塩釜神社でお花見をして、お団子食べて、マグロ丼食べたり、上生菓子を買って、榴ヶ岡公園でお花見しながら食べたり。おいしいお店に色々と連れて行ってくれた。
私が失恋した時は、街に連れ出しゲーセンで一緒に遊んでくれた。クレーンゲームで1個も取れなかった私に、自分が取った分を分けてくれた。待ち合わせ場所は本屋が多かった。合流後は、あえて本屋には必要以上に寄らないようにした。2人とも本屋が好きで、ほっとくと1時間以上過ぎてしまうから。ガチャガチャも好きで、見かければ立ち寄り、気に入ったものがあれば回していた。食玩も好きで、ダブった物とかをたくさん譲り受けたこともある。3.11以降頻繁に地震が起き、飾っても飾ってもすぐにぐちゃぐちゃになってしまうため、飾らなくなってしまったが…。
私の描いた恋愛マンガの投稿作は「恥ずかしくて読めない」なんて言っていたけど、ホラーになってからは「いいんじゃない(ニヤリ)」って読んでくれた。会える日には私のマンガが掲載された児童書を持っていって見せた。
そんなこんなで、思い出話はたくさん出てくる。2人きりの思い出を中心に記したが、他にもたくさん。
そんな感じで、仕事のことだけでなく、様々なことを教わってきた。
先輩であり、師匠であり、友人であり、お姉さんであり、お母さんのような(と言ったら怒られるな、「こんなでかい子供いねーよ!」って)そんな存在。どんな言葉で表現するのが適切なのか分からない。
とにかく「お世話になった人」である。
電話越しで、旦那さんに「生前良くしていただいたようで…」というようなことを言われたが、心の底から
「こちらこそ…!」
と返した。今まで書いたように、本当に「こちらこそ」なのだ。
そういえばTさん、毎年「誕生日おめでとう」のLINEくれてたのに、今年はなくて「あれ?どうしたんだろ。忘れてるのかな?まぁいっかー」なんて思ってたけど、そりゃあ送れないよね。もう亡くなっていたんだから…。
毎年、誕生日以降に会った時には「遅くなったけど…」とちょっとしたプレゼントを用意してくれていたっけ。
最後に会った日だって、姪っ子ちゃんにあげるつもりだったプレゼント、なかなか会えないし賞味期限切れちゃうからって私にくれた。
12月の個展、来てほしかったなぁ…。
もし元気だったら、きっと冷やかしに来てくれただろうに。ニヤニヤしながらやってきて、関心した顔で作品を見て、去り際には「じゃあね、がんばるのよ~」って。
きっと、ちょっととしたお菓子を持って。
能くこんな辛い話書きましたね。
本当にTさんは瑞希さんの救いだったんですね。
その善き理解者を失って、瑞希さんはこれから誰に救いを求めればよいのか心配です。
然し瑞希さんも逞しくなっていますね。
嘗ての恋人に誘われて埼玉に暮らし、DVに苦しめられたこと、能く公表したと思います。
この時の経験は心の傷となっていても不思議でない事件です。
然しそれを公表出来たのは其の心の傷を乗り越えた証だと思います。
着実に生きて、益々良い仕事を生み出されることをお祈りいたします。
恋人関連の話は書くかどうか少し悩みましたが、
Tさんのことを語る上では外せないエピソードだったので入れました。
心の傷は何年も引きずりましたが、最近ようやく乗り越えられた気がします。
この調子なら、そのうちマンガのネタにもできるかもしれませんね。